4月「よみうりカルチャー北千住」で「家系図の魅力と作り方」(初級)開催!

 大分春めいてまいりました今日この頃ですが、2017年4月から「よみうりカルチャー北千住」様(東京都足立区千住旭町42-2 北千住「ルミネ」9F)で、家系図の講座をさせていただくことになりましたので、皆様にご案内させていただきます。

 日本を代表する大手新聞社の読売新聞系列の「よみうりカルチャー」様は全国的にも大変有名ですが、そのうちの一つ「よみうりカルチャー北千住」様において次の日程で開催予定です。

 
 〇日   程 
  4月15日から3か月3回 第3土曜日 13:00~14:30
 
 〇場   所
  よみうりカルチャー北千住 JR北千住駅前のルミネ9F
 
 〇連 絡 先
  電話03-3870-2061 メール kitasenju@ync.n.jp 
 
 〇体験フェア 3月18日
  体験フェアは、受講申し込みを正式にされる前に、
  講座の内容を実際に体験していただくものです。
  受講ご希望の方は、こちらから実際の講座(一部)
  を先に体験していただきます。  

★この講座は、初めて家系図を作ろうと思った方を対象にして、参加者ご自身で戸籍謄本等を集めていただき、それに基づいて分かりやすく家系図の作り方をお話させていただくものです。
 戸籍謄本等の集め方は講座の中で丁寧にご案内いたしますので、ご安心ください。また、漫画「サザエさん」などの話なども交え、楽しく学べる内容となっております。

 家系図にご興味がお有りの方は、この機会に是非、上記連絡先までお気軽にお問い合わせください。

 皆様のご参加を心からお待ち申し上げております。
 

週間「保険情報」に記事が掲載されました

 生命保険業界等で絶大な信頼を寄せられています「保険情報」(株式会社 保険社 東京都杉並区高円寺南4-2-8)様に寄稿をさせていただきました。
記事は2016年11月11日号、2017年1月27日号に、それぞれ見開き1ページに大きく掲載されました。

 2016年11月11日号は「ステージノートに進化させよう」というタイトルで、エンディングノートの現状と問題点、その解決策としての「ステージノート」の提案を行いました。
 また、2017年1月27日号は「初対面でも大丈夫「名字のマジック」」と言うタイトルで、主に営業担当者の方がお客様等から頂く名刺のお名前から出身地など推測して、会話のきっかけにしていただこうというものです。
 どちらも、お陰様で好評であったようです。

 これを受けて、次の掲載は2017年3月頃の予定です。よろしかったら保険情報さんを是非ご覧ください。

 *先祖調査、名字、相続、遺言等に関する記事をご希望の場合は、お気軽に「東京の家系図屋さん」までご相談ください。

黒曜石と翡翠

先祖調査や家系図作成のという仕事柄、歴史関連の図書をよく読みますが、時代をどんどん遡ってゆきますと必然的に石器時代に到達します。

この時代のご先祖様のことを知る方法はありませんが、この時代に生きていたことは確かで、そうしたことに思いを馳せるのも歴史のロマンの一つではないでしょうか。

さて、この石器時代で、個人的に最近気になっていたのが「黒曜石」と「翡翠」。
黒曜石は歴史の教科書にも出てきますが、火山岩のひとつで、ほぼガラスに近い物質です(二酸化ケイ素が70%程度)。
これを砕くとナイフの刃のようになる(破断面が鋭利)ので石器時代にナイフや鏃などに使用されていました。

黒曜石の国内の主な産地を調べてみますとだいたい次の通りです。
①北海道(白滝(すき焼きを思い出します)他3カ所
②本州(長野県 和田峠。霧ヶ峰。東京都 神津島。神奈川県 箱根他)

北海道の白滝産のものは、アムール川河口のマラヤ・カーヴァ遺跡からも出土しており(産地により成分が異なるため確認することが可能)、当時の広い交易状況が分かります。

石器時代というと「石の大きなお金を使う漫画」が浮かんできますが、実はこのように交易も行われていたんですね。
黒曜石は切れ味が鋭いので、科学技術が進んだ現在でも外科手術などに使用される場合もあるとのことですが、真偽不明です(笑)。磨くと宝石のようにも利用できるようです。

さて、翡翠(ひすい)ですが、新緑から白色をの宝石で、硬玉はモース硬度が6.5 – 7と非常に硬いため壊れにくく、先史時代には石器武器として使用され、ヨーロッパでは翡翠で作られた石斧が出土しているようです。なんとも豪華な石斧ですね。

また、古代の中国では他の宝石よりも価値が高いと認められ、古代くから腕輪などの装飾品、器、精細な彫刻をしたた置物なども作られたようで、実用面と装飾面の両方で重用されていたことが分かります。

ヒスイの加工として現在のところ判明している最古のものは、日本新潟県糸魚川市で縄文時代中期(約5000年前)から始まったとされています。

この硬くて丈夫な翡翠は、不老不死および生命の再生をもたらす力を持つと信じられていたようで、日本では弥生時代・古墳時代に珍重されて祭祀・呪術などに使用され、装身具や勾玉に加工されたことはご存知の通りです。

最初に何かを発見して使用した人の名前は不明ですが、ひょっとすると、あなたのご先祖様が発見したかもしれません。
先人たちの努力のお陰で現在の私たちの文明がありますし、そうした中で生き抜いてきた自分のご先祖様にも感謝したくなります。

私も生きているうちに、何か発見できたらいいなと思いますが・・・うーん。

武将姿に変身してみました

京王線の調布駅前にあります「たづくり」で平成26年11月26日に行われました真田丸関連の行事で、武士の衣装を無料で貸してもらえる企画がありましたので、行ってきました。
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徳川、真田の鎧なども展示され、さらに真田昌幸公の部屋も再現されていました。歴史上有名な上田合戦などの時に、こういう部屋の中で真田昌幸公がいろいろと対徳川の戦術など考えていたのかと思うと感無量です。
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当時使用された弓、日本刀、鉄砲、軍配などもありました。当時は、こうした武器を手にして独立を守り領地を守ったわけです
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歴史大好きな私は、以前からお侍さん姿にとても興味がありましたので、早速、衣装をお借りしました。
最近は、デジタル技術の進歩が目覚ましく、背景にお城なども自由に入れて撮影することができました。
鬘(かつら)と日本刀、羽織をお借りして武将姿に変身してみました。

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すっかりお侍さんの気分に浸れて、とても楽しかったです。
皆さんもこうしたものに参加されますと歴史を身近に感じていただけますし、きっとご家族でも楽しい話題になると思います。

保険情報2016年11月11日号に寄稿

生命保険・損害保険の両保険業界で有名な有力紙である保険情報(東京都杉並区 発行:保険社)の11月11日号に「ステージノートに進化させよう」というタイトルで、今、流行りの終活やエンディングノートに関する提案等を寄稿させていただきました。
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現在、高齢化社会を迎えた日本ですが、そこに焦点を当てた「終活」(人生最後の締めくくりの諸活動)やエンディングノート関連の書籍が本屋さんを賑わしているようです。

しかし、こうした終活やエンデイングノートのようなものは人生の最後だけに必要になるものではなく、何歳であっても、いつの時点でも準備して置くに越したことはありません。

むしろ、最後の場面になって慌てて行ったために漏れが生ずるよりは、常日頃からのリスクマネジメントの一環としてよく考えておく方がよろしいと思います。
そうした側面からの提案等を今回は寄稿させていただきました。
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また、このような内容の講座等を企画されていらっしゃる場合は、お気軽にご相談いただければと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

早いもので、明後日は12月1日になります。
寒さも増してまいりますが、皆様どうかご自愛の上、良い年末をお過ごしください。

(2016年11月29日)

江戸時代の地震・噴火 苦難を乗り越えたご先祖様 

 平成28年(2016)4月14日に熊本県と大分県で相次いで地震が発生しました。最大震度7を観測し、熊本県では合計50名の方お亡くなりました。改めて謹んでお悔やみを申し上げます。

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 この地震で、熊本城は天守閣の屋根瓦が崩れ、屋上に設置されていたしゃちほこが落下し、石垣が崩れるなどの大きな被害を受けました。熊本県では歴史的に見て大きな地震は過去になかったと一部で言われているようですが、実は熊本県に大きな地震は過去に何度も起こっていたようです。

 さて、日本全体に目をやりますと、江戸時代だけでも次のような大きな地震・噴火が発生しています。

・1611年。陸奥。会津大地震  死者3000人。会津若松城が被害。会津盆地下流で山崩れが起こり、この山崩れで阿賀川(あががわ。福島県・群馬県に源流があり新潟県を流れ日本海に注ぐ日本有数の一級河川。新潟県内では阿賀野川(あがのがわ)と名前を変えます)が堰止められて山崎湖が出現しました。山崎湖の水抜き工事には大変苦労したようで、出現から半世紀経過して保科氏の時代になってから何とかこの水抜き工事に成功し、山崎湖はなくなり元の姿に戻りました。推定マグニチュード7.0。
  
・1703年。関東。元禄大地震 鎌倉で600人、茂原で2500人死亡。相模湾周辺と房総半島の南端では最大高さ12m(熱海)の大津波が発生。推定マグニチュード8.2*関東大地震のマグニチュードは7.9と推定されています。これを上回るのですから地震の大きさに驚きます。  

・1707年。駿河。富士山宝永の大噴火。死者は確認されていません。噴火の降灰が降雨時に河川に流下・堆積して大氾濫を起こしたため、小田原藩は大被害を受けました。江戸にも降灰をもたらした歴史上最後の富士山の噴火。最後の噴火から300年経過した現在、一体どのくらいのエネルギーが富士山の地下にたまっているのでしょうか。

・1751年。越後。越後高田の大地震。高田地震とも。土石流、津波により死者数千人(高田藩)。推定マグニチュード7.7。

・1778年。伊豆。三原山の噴火(マグマ噴火、水蒸気噴火)。江戸に噴火音が届く。

・1779年。薩摩。桜島の大噴火。死者150人。300年ぶりの大噴火により田畑2万石が被害。1781年までに海底噴火により津波が発生し船が転覆する等の被害。

・1783年。上野。浅間山の大噴火。死者2万人。火砕流によって鎌原村(現在の嬬恋村)では一村152戸が飲み込まれ483名が死亡。浅間山の噴火により鎌原村は土石なだれに襲われ118戸、477人、馬165頭が一瞬のうちに流失し、台地にあった観音堂(嬬恋村鎌原492)だけが唯一の建物として残り、その後、生き残った村民90数名が被災者の供養を続けながら、村の再建を行いました。

・1804年。出羽。出羽の大地震。象潟地震(きさかたじしん)とも。死者400人。8000戸全壊。津波を伴った大地震。江戸時代までは砂洲によって外海と切り離されてできた湖があり、景勝地として「東の松島・西の象潟」と言われ、kisakatako
松尾芭蕉の「奥の細道」でも「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し。」と言い表され「象潟や雨に西施がねぶの花」と読まれましたが、地震による土地の隆起でなくなりました。

・1847年。上信越。上信越の大地震。善光寺地震とも。推定マグニチュード7.4。死者数千人。犀川が地震で堰き止められ大洪水が発生。善光寺領とその周辺は大きな被害を受け、広範囲にわたり地すべりや山地崩壊が発生し、大量の崩壊土砂による川の堰き止め、決壊、洪水の発生という二次災害による被害も大きかった。

・1854年。東海。安政東海地震。推定マグニチュード8.4。被害は関東地方から近畿地方に及び伊豆下田は津波で全滅。死者3000人。東海道筋を中心に各地で火災が発生し信州松本で城下の家が大方潰れ、大火により350軒余焼失
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・1855年。江戸。安政江戸大地震。推定マグニチュード6.9.死者1万人。1万4000戸全壊。本所・深川・築地で無事な家屋は見当たらなかったと言います。また、江戸城も破損し、将軍家定は城内の庭園に避難したと伝わります。

 上記のように江戸時代にも大地震・大噴火がありました。特に幕末の1853年(嘉永6年6月3日)にペリーの黒船が来航しました。この直後の1855年の安政の大地震は、あわただしく変化する時代の真最中に発生した大地震であったわけで、江戸幕府に大きな影響を与えたと思われます。 

 このように大地震・大噴火は私たちの生活や生命を一変させる非常に大きな力を持っています。しかし、なんとか私たちのご先祖様がこうした自然による大きな危機を乗り越えて生き延びてくれたお陰で現在の私たちがいます。そう思いますと、ご先祖様に対する感謝の念が自然に出てまいります。

 こうした自分自身のご先祖様をよく知るためには戸籍調査や、さらに江戸時代まで遡る現地調査が有益です。もし、まだ家系図をお持ちではないという方がいらしたら、そろそろご準備をされてご先祖様のご供養をされるのもよいのではないかなと思います。

(2016年11月5日)

築地市場と江戸の台所(2)

 前回は、築地市場の成立に絡めて江戸という都市の成立も見ることが出来ました。
 徳川家康より前の太田道灌時代で100戸程度でした。

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 従って、現在、東京都にお住いの多くの方々は第二次世界大戦後に東京に移ってこられた方が多いと思います。
 
 「江戸っ子は三代続いて江戸生まれでなければならない」と言われますが、江戸時代から続く代々江戸っ子の家系よりも、現在では、明治以降になってから移ってこられたご先祖様を持つ江戸っ子が多いと思われます。

 そうしますと太田道灌時代の江戸に存在しました100戸の中にご先祖がいらっしゃる方は、東京都にどのくらいいらっしゃるのかとても興味があります。
 もし、ご先祖様調査のご依頼を頂いたら喜んでお手伝いさせていただきたいと思います。

 さて、江戸時代の代表的な市場のうち、「日本橋魚市」が築地市場になったわけですが、その他の食料で重要な「米」「野菜」はと言えば次のとおりとなります。

〇米・・・・蔵前
〇野菜・・・神田

 米ですが、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買上米などの収納・保管倉庫を御蔵と呼び、大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵と言われました。特に浅草御蔵は重要で、ここの米は主として旗本、御家人の給米として供されました。
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 これを御家人に代わって現金化するのが札差(ふださし。旗本・御家人に支給される米の仲介業者)という商人でした。地名としては東京都台東区の町名に「蔵前」がありますが、この町名は江戸時代にありました浅草御蔵にちなんで昭和9年に付けられました。現在は国技館があり全国的に有名です。

 野菜は、江戸初期に「菜市」が開かれたのを起源とする「神田」が有名です。当時の神田は水陸交通が発達しており、各地から青物が集まっていたようです。
 オフィスビルが現在立ち並ぶ東京都千代田区の地名に神田多町(かんだたちょう)があります。

 この町は慶長11年(1606)に出来たとても古い由緒ある町です。この町の名主河津五郎太夫(かわづ ごろうだゆう)が慶長年間に二丁目に菜市を開いたのが神田菜市の起源になります。それ以来長く神田で続き、関東大震災後に多町市場は秋葉原に移り、平成3年に現在の太田市場に移転しました。

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 この河津五郎太夫の子孫の方は現在どうしていらっしゃるのか、とても興味があります。
 「河津」という姓は、地名の河津からきているようにも思えます。そうすると伊豆の河津が浮かびます。
 そのご子孫が現在野菜に関係するお仕事をされていたら素敵だなと思います。

 (2016年11月5日)

築地市場と江戸の台所(1)

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 秋を通り越して東京は肌寒い天気ですが、最近は東京オリンピック関連の工事で築地市場の豊洲移転がたびたび話題になり、熱く新聞、TVを賑わしております。

 豊洲に移転するのが良いのかどうかはさて置き、今回は話題となっています築地市場を取り上げたいと思います。
 また、江戸時代の江戸の台所(市場)はどうなっていたのかという話させていただきます。

 さて、東京(江戸)は徳川家康公が江戸幕府を開き、日本の歴史上注目されることとなりました。
 江戸幕府が成立する前の東京は日本の中でも田舎でした。現在繁華街となっている銀座や湾岸エリアも、かなりのド田舎でした。

 最初にこの地域が開ける契機は、江戸幕府が1603年に開かれはるか以前の1457年に太田道灌が武蔵国豊嶋郡に城郭を築いたことにありました。
 これにより城下に市が立ち、廻船も江戸湾に入ってくるようになったようです。太田道灌時代当時の江戸の集落の規模ですが、それでもたった100戸程度で、太田道灌以前の江戸は10戸程度の寒村(漁村)といって良いと思います。今では考えられません。 当時はやはり関西が経済の中心地でありました。

 ここで、中世の東京の地図をご覧ください(出典 早わかり江戸時代 日本実業出版社)。

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 現在の東京都の地形とは大きく異なり、日比谷辺りには入江があり日比谷は海の中でした。東京駅のあたりは「江戸前島」と呼ばれており半島状の地形で、その回りは三方が海でした。
新橋のあたりは完全に海中でした。

 
 太田道灌以降、室町幕府が滅び、戦国時代になり、豊臣秀吉が天下統一を果たしました。そして、秀吉によって関東移封となった徳川家康が江戸に入ります。
 
 家康の関東移封から暫くたった江戸幕府成立後の1639年代の東京の地形は、その次の地図をご覧ください(出典 同上)。

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 中世の地形と比べて、かなり埋め立てられています。東京駅がある江戸前島という半島の周りはすっかり陸地になり、日比谷の入江も陸地になりました。海中にあった新橋も埋め立てられて陸地となっています。

 徳川家康が江戸に城下町を本格的に建設開始したのは豊臣秀吉の死亡(1598年)以降になります。
 では、何故それまで徳川家康は本格的な城下町を積極的に建設しなかったのでしょうか。
 
 その答えは、豊臣秀吉存命中であれば再度移封される危険性があったからです。さすがに用心深いと言われる徳川家康だけのことはある思います。

 豊臣秀吉死亡後、関ケ原の合戦(1600年)を経て、1603年に徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開設しましたが、同時期(1603年)に摂津国(せっつのくに。現在の大阪周辺及び兵庫県東部)の佃村の漁師を移住させました。移住した人の氏名も判明しておりますが、森孫右衛門以下30人の漁師と伝わります。また、彼らの移住前の現在住所地は、現在の大阪府大阪市西淀川区佃と判明しております。

 この移住の理由ですが
 ①「徳川家康の大好物が鯛の天ぷら」で「新鮮な魚介類を献上させるため」というものがあります。将軍というのはものすごいグルメな権力者だったと感心しますが、他に
 ②「本能寺の変が起き織田信長が死亡した時、徳川家康はわずかな手勢とともに大阪にいましたが決死の覚悟で本拠地岡崎城へと戻る途中に神崎川(現在の大阪市住吉区)を渡る舟が無く先に進めなりました。そのときに近くにあった佃村の庄屋の森孫右衛門と彼が率いる漁民が徳川家康に船を提供したため無事生きて岡崎に戻ることができ」「後に江戸幕府を創設した家康が、このときのことを恩に感じ、摂津国佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権と佃島を与えた」というものがあります。

 恐らく後者が正しいと思われますが、案外、その後は大好物の天ぷらを徳川家康は毎日いただいていたのかもしれません。

 そして摂津国佃村から移住した30名の漁民が江戸に住み着いた場所(徳川家康から拝領)が、当時、江戸湾の隅田川河口にありました「佃島」でした。彼らは故郷の村の名前にちなんで命名したと思われます。ここに移住した漁師たちは、かつて干潟であった佃島を自分たちの手で造成したと言われています。土木技術も持っていたのでしょうか。驚きます。

 ここから本題の築地市場の話になります。

 さて、先ほど出てきました森孫右衛門の子(二男)に九右衛門がおりました。森孫右衛門支配の漁師達は小網町辺りに居住(佃島から魚河岸の成立によって引っ越してきたのか。詳細不明)して御膳白魚上納と将軍遊覧の際の網曳御用を勤めることになり、九右衛門は漁に出て鮮魚を将軍家に献上しますが、漁獲の余りが出ます。彼は、この余った魚を幕府の許可を得て日本橋小田原町で売りました。これが日本橋魚市(魚河岸)の始まりとされています。

 話がそれますが、それ以前の日本橋ですが、日本橋小田原町は小田原出身の石工善左衛門が石揚場(舟で運んだ石材を荷揚げする場所)として幕府から拝領したことが起源で、そもそも善兵衛は戦国時代に北条領国の石切棟梁に任命され、活躍していましたが、天正18年に北条氏滅亡した後、その技量を徳川家康に認められて慶長年間(1596-1615)の初め頃に、本格化する江戸城の普請や城下の町割りに使用する大量の石材の運搬や加工に従事することとなりました。
 
 日本橋小田原町は全国各地から船で運ばれた石材の陸揚げ場として大変賑わい、善左衛門をはじめ配下の石工が数多く居住したようですが、魚市場(日本橋魚河岸)が開かれたことによって石揚げ場は築地に移転することとなり、これを「南小田原町」と称し、日本橋小田原町は「本小田原町」と改称をしました。

 「南小田原町」の成立に、前述の石工善兵衛等移住によるという説のほか、寛文4年(1664)に日本橋小田原町の魚問屋等が江戸幕府の許可を得て開発したとも伝えられ、南小田原町にも多くの魚商が移住して「本小田原町」一帯の日本橋魚河岸に対抗したとも伝わります。 

 話も元に戻しますが、やがて、日本橋辺りに魚問屋が多く集まりるようになり、人口増加した江戸の大きな胃袋に魚を供給し続けました。この日本橋の魚市場は、その後明治時代まで長く続くこととなりました。

 幕末(安政年間)の頃の江戸の古地図は右のとおりです。

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 江戸、明治、大正と日本橋の魚市場は順調に発展を続けましたが、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により、大きな被害を受けたため築地に移転をいたしました。これが現在の築地市場になります。
 
 現在の築地市場は関東大震災以降93年間の歴史がありますが、日本橋時代を含めますと約400年間の歴史になります。この築地の歴史を辿りますと「徳川家康」と「摂津国佃村の漁民」という二つのルーツに行き着くわけであります。
 
 もし、徳川家康公が現在の築地市場の豊洲移転をご覧になっらた、どう思われるのでしょうか。
 
 歴史って面白いですね。
 
 江戸の台所(各市場)については、次回とさせていただきます。

(2016年11月3日)

金座 銀座 そして銅座?

 前回のブログでは江戸時代の貨幣、紙幣についてお話をさせていただきました。
 今回は、それに関する面白い補足を分かりやすくお話させていただこうと思います。

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 さて、江戸時代の通貨の鋳造権等ですが、貨幣は江戸幕府、藩札は各藩が行っていました。このうち、幕府が鋳造する貨幣は、実際には「座」(ざ)が行っていました。
 「座」とは商工業者等の同業者組合のことで、権力者(幕府、朝廷、寺社等)に金銭などを払うことで営業・販売の独占権などの各種特権が認められていました。

 貨幣の内、金貨(小判)を鋳造する座を「金座」、銀貨(丁銀等)を鋳造する座を「銀座」と呼びました。金座、銀座ともに幕府の官営ではなく町人による請負方式でありました。銅貨を鋳造する座は「銀座」と呼びそうですが、なぜか銅貨を鋳造する座は「銭座」(ぜにざ)と呼ばれていました。これらの貨幣鋳造の座は幕府の官営ではなく町人による請負方式でありました。

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 銭座の呼称ですが、古くは飛鳥時代、奈良時代から平安時代に発行された皇朝十二銭を鋳造する組織を鋳銭司(じゅせんし・ちゅうせんし)と呼びましたが、江戸時代になり銅貨を鋳造するところを鋳銭座とも呼びましたので、これが省略されて「銭座」と呼ぶようになったのかもしれません。
 また、現在、高級店が立ち並ぶ東京都中央区の「銀座」という地名は、貨幣鋳造所であった金座、銀座、銭座のうちの銀座からきています。

 他方、「金座」「銭座」という地名は現在の東京都内にないようですが、「金座」がかつて存在した場所は判明しております。その場所が、なんと日本銀行の本店周辺になります。この辺りには「金座通り」という道路も現存します。

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 中央区道路愛称名一覧では、 金座通りは日本橋浜町1丁目12と清洲橋(きよすばし)通りと交差する久松町交差点・日本橋浜町2丁目11を結ぶ通りになります。

 この金座は、慶応元年(1868)に江戸の金座・銀座が官軍に占領されるまで活動が続きました(実際には、その後も明治政府が翌年まで鋳造していましたが、粗悪品で諸外国から抗議され、太政官札に切り替わり、完全に廃止されました。
 一見、金座と日銀との不思議な縁のように見えるますが、江戸時代の幕府の金座が明治になり廃止され、その跡地周辺に日本銀行が出来たと分かれば当然のことと理解しやすくなります。

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 銭座ですが、全国六十箇所以上に存在し、東京では台東区浅草や葛飾区亀戸(2丁目辺り)に銭座がありました。銭座では寛永通宝が鋳造されていたようです。

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 この寛永通宝ですが、使用されていたのは江戸時代だけではなくその後も通貨として使用され、なんと法的には28年の法律改正まで使用が可能でしたので驚きです。

 金座(日銀)で仕事をしてから銀座でお酒を飲み、お支払いは亀戸銭座の寛永通宝で済ませられればよいのですが、実際は小判が何枚か何十枚か必要になりそうですので、お殿様か紀伊国屋文左衛門クラスのお大尽の方以外は真っすぐに家に帰った方がよさそうです。

(2016年11月1日)

お客様の質問シリーズ 1江戸時代の小判の値段(現在価値)

 時々お客様から何気なく質問されることの中で、きちんとご説明するのに時間がかかる難問をブログに書こうと思います。
 こうしたご質問は、お客様が興味をお持ちで、お知りになりたいことだと思います。
 私もずいぶんと質問をされて非常に勉強になりましたので、その内容を書いて皆様に読んでいただけたらと思います。

 第1回目の今日は、小判の値段(現在価値)についてです。

◆江戸時代のお金の種類
 江戸時代のお金についてですが、現在同様に貨幣と紙幣がありました。
 現在では、貨幣よりも紙幣の方が高額です。貨幣は重いですし、その割に紙幣よりも価値が少ないので、貨幣よりも紙幣が好まれています。

 さて、江戸時代には貨幣が3種類ありました。
 現在でいうところの金貨、銀貨、銅貨になります。紙幣は「藩札」といわれるものです。
 
 このうち金貨は誰でもご存知の「小判」とよばれ、これよりも一回り大きなサイズの「大判」というものも存在しましたし「一分金」「一朱金」というものもありました。
 銀貨は「丁銀」(ちょうぎん)、「豆板銀」とに分けられました。「丁銀」は棒状で「豆板銀」は小石のような形状です。
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 「小判」は江戸中心の経済圏で、「丁銀」「豆板銀」は大阪を中心とする経済圏で主に流通していました。
 つまり、金貨は関東、銀貨は関西というザクッとした分け方ができます。
 関東で小判が普及した理由としては、当時の金山が主に常陸、甲斐、伊豆、佐渡などにあり、また、徳川家康によって金貨の一般通用が新しく取り入れられた政策という経緯がありました。このため「小判」は主に関東地方を中心に流通しました。
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 他方、銀貨ですが、江戸時代には主に大坂を中心とした西日本および北陸、東北と広域にわたって流通しました。つまり関東以外は銀貨が主流であったと考えても良さそうですが、これは石見銀山などの優良な銀山が関西よりも西にあったためとも考えられます。

 最後の「銅貨」ですが、有名なものに寛永13年(1636年)から幕末まで鋳造された「寛永通宝」があります。
 708年(和銅元年)に日本で最初に鋳造・発行された流通貨幣である和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)も銅貨で、日本で一番長い歴史があるのは銅貨になります。
 これら貨幣の鋳造権は江戸幕府にありました。 
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 貨幣から紙幣に目を移しますと、「藩札」といわれる紙幣がありました。 藩札は、江戸時代に各藩独自に領内に発行した紙幣です。
 日本で最初の藩札は、通説によれば越前福井藩が寛文元年(1661年)に発行した銀札と言われています。
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 現代と異なり、江戸時代は紙幣よりも貨幣が全国的に流通するものとして重要視されていたことが分かります。

◆金貨、銀貨、銅貨の換算方法
 金貨の場合は小判を例にしますと小判1枚を1両といいます。1両は4枚の1分金と等しく、16枚の一朱金と等しい価値になります(1両=1分金×4枚=一朱金×16枚)。
 また、当初、小判1両は銀50匁(225g)で、銀50匁(=1両)は4枚の1分銀と等しく、16枚の一朱銀と等しい価値になります(1両=1分銀×4枚=一朱金×16枚)。
 さて、小判1両(=銀50匁)を寛永通宝に換算すると一体どの位の枚数が必要になるか知りたくありませんか。
 実に4000枚という枚数になります。寛永通宝1枚は小判1枚の1/4000の価値ということになります。
 *上記は一般的な換算方法ですが時期によって比率は異なります。江戸時代を通じて常にこの比率でどの地域でも換算されていたわけではありません。

 そこで、小判1枚の現在の価値が分かれば、江戸時代の銀貨も銅貨も現在の価値がある程度スグに判明することになります。

◆お客様からいただく質問
 お客様から「先生 小判1両って現在の価値でいくらくらいでしょうか」という質問をされることがあります。
 お寺の過去帳などに、お客様のご先祖様が「〇両お布施をされた」という記録などがあり、興味を持たれて質問される場合もございます。 

 これをお客様にお答えするには、上記のようなこともお話しする必要がありますが、通常は「だいたい1両10万円位です」と答えることにしています。
 これは、お客様があまり複雑な話を好まれない場合などには、分かりやすくパッと把握できるようにと考えてのことです。ご容赦ください。

 しかし、実際には江戸時代に小判は何度となく鋳造され、金の含有量もそれぞれ異なりますので、このようには断言できないのが実情です。
 1601年に鋳造された慶長小判の金含有量は84.3%といわれていますが、幕末(1860年)の万延小判では56.8%になってしまいます。これが同じ現在価値であるわけがありません。

 また、基本的に江戸時代は「米」が年貢(税金)ですので、言い換えますと税収の大半が米という現物になり、御家人、藩士への禄(給与)なども現在と異なり米の現物支給が一般的でした。この米の価格を基準にして当時と今の値段を比較しますと、1両=約4万円程度とされています(日本銀行金融研究所貨幣博物館資料より)。

 しかし、大工さんの手間賃を基準に判断しますと1両=30~40万円、お蕎麦(そば)の代金を基準にしますと1両=12~13万円という試算も紹介されています。
 従って、何を基準にして1両を現在価値に引き戻すのかによって全然異なる金額になるという訳です。
 はっきり申し上げますと「一言で申し上げるのはむつかしい」ということになります。 

 これらをお客様にすべて丁寧に説明して差し上げるには少々時間がかかります。そこで、説明を差し上げる時間がない場合には、これらを平均して「だいたい1両10万円です」とお答えをしているわけです。もちろん時間的余裕がお有りの客様には、こうした説明を分かりやすくさせていただいております。

◆猫に小判
 小判お話が出たついでですが、「猫に小判」という諺をよく耳にします。
 この意味は一般的に「価値の分からないものに価値のあるものをあげても無駄だ」という意味に使われているようです。
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 そこで「猫に小判」とは一体いくら位の金額かということですが、「猫に小判」の写真を探しますと「壱千萬両」と書いてある札が猫の首に下げてありました。
 仮に1両の現在価値を低めの4万円(米を基準)として計算しますと壱千萬両は4000億円になります。やはり動物の猫には使い切れない金額で無駄かもしれません。

 (2016年10月31日)