歴史ブログ 美しい地名 そうでない地名(2)

前回は、南アルプス市のお話をしました。今回は、さらに物凄い市町村名についてお話しさせていただきます。

2005年の話になりますが、愛知県の知多半島にあります常滑市の沖に中部国際空港が開港しました。この空港は、「セントラル=中部地方」と「空港=エアポート」の英語を組み合わせて、「セントレア」と言う愛称で呼ばれました。この空港が完成して地元の方々は大変喜ばれたようです。

この開港をを受けて、これまで合併を考えていた近隣の美浜町と南知多町は新市名を一般公募しました。その結果選ばれたのが「南セントレア市」でしたが、一体どこの国の地方自治体なのかも一目では不明ですし、過去の土地の歴史を無視した噴飯ものの珍名称で、住民の方のお怒りは当然だと思います。

さらいいけないことに、公募で選ばれるはずの新名称でしたが、公募の中には「南セントレア市」は全く存在しませんでした。この件は、全国的に報道され、批判を受けました。そのため「南セントレア市」という新名称(案)は撤回されましたが、その後の合併を問う住民投票では合併自体が否決されるという悲しい結末を迎えました。

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合併協議会のメンバーが、その土地の歴史やその土地に対する愛情が不足し知識も不足していたために行政に混乱を起こし、全国的恥ずかしいニュースが流されてしまいました。

さて、日本の行政区画ですが、そもそもは大宝元年(701)に制定された大宝律令にまでさかのぼることになります。
大宝律令の詳細は別の機会に譲るとしまして、律令によって五畿七道(ごきしちどう)という、今でいう広域行政区画が定められました。

五畿は都と中心とする畿内5か国(山城国=京都市、大和国=奈良県、河内国=大阪府(東部)、和泉=大阪府(南西部)、摂津=大阪府北中部および兵庫県(一部)を指し、七道は東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西南道を指します。

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山城国は、「山代」と書かれていたものが7世紀頃に平城京(奈良)から見て平城京のそばにあります奈良山の後ろの方角になるので「山背」と表記するようになったようです。大和国、もともと奈良盆地の一部の土地の名称でありました。河内国は、もともと川内と書かれてたようです。淀川と関係する地名なのかもしれません。和泉国は、もともと一文字の「泉」と表記されていましたが、律令制度下において国名を2文字にすることとなり、佳字(おめでたい文字)である和が付け加えられました。摂津国は、もともと一文字の「津」と表記されていましたが、壬申の乱の勝者となった天武天皇が津国を摂(管理)する摂津職を置き、この名称が国名へと繋がりました。

今回はここまでとし、次回は皆さんとご一緒にさらに詳しく見て行きたいと思います。
(2016年1月7日)

歴史ブログ 美しい地名 そうでない地名(1)

先祖調査で戸籍を遡りますと、合併などにより本籍地の名称が変わっていることがあります。
この合併の大きな動きを新しい順に言いますと「平成の大合併」があり、その前ですと「昭和の大合併」「明治の大合併」があります。
この中で、「これはどうなんでしょ」という地名も出来ました(あくまで私の感想です)。

そこで、問題です

<問題>
「仮に、山梨県西部の白根町、若草町、芦安村、甲西町、櫛形町、八田町がこれから合併する場合、あなただったらどのような新名称にしますか」

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<お答え>
良くありますのは、合併前の市町村名称から一文字ずつ頂いて合成するもので、千葉県習志野市の「津田沼」は、その昔は、谷「津」村、久々「田」村、鷺「沼」村がありました。これらが合併し一文字ずつ頂いて「津田沼」となりました。

しかし、上記の問題の場合ですと、6町村が合併しますので一文字ずつ取ると6文字と長くなり、最初の一文字目だけを合成しても「白若芦甲櫛八市」となり、書くのが面倒でこんな住所に年賀状もお中元もお歳暮も送りたくはありません。

実は、この問題は平成15年(2003)4月に実際に発生したもので、新名称は「南アルプス市」となりました。

目立つという点では素晴らしいのですが、各地に古くから伝わる地名には長い歴史が含まれており、全くこれらを切断するような新しい名称はとても残念です。

例えば京都市が「エンペラー市」に変わったら、どこの国の市かと嘆かわしくなります。そもそも「アルプス」などと言う言葉は明治以降に使用されたものです。山梨県には有名な戦国武将の武田信玄公がおりました。古い「甲斐」と言う名称もとても素敵だと思います。

私は、現在、東京都調布市に住んでいます。近くには古いお寺の深大寺や多摩川が流れています。もし、「多摩リバー市」のようになるようなことがありましたら、きっと急いで引っ越しをすると思います。
さて、皆さんがご先祖様を探された場合に、どんな本籍地の名称が出てくるのかとても楽しみなことだと思います。出来れば昔からの地名を尊重した形で受け継がれていることを願います。それによってご先祖様と日本の歴史がさらに身近に感じられのではないでしょうか。

(2016年1月6日)

歴史ブログ あだ名

子供だけでなく大人にも、本名とは別に「あだ名」がある人がいます。あだ名の中には愛嬌がある可愛らしいものもあれば、本人が聞いたら気分を害するようなヒドイものもあるようです。

さて、幕末の有名人たちも、かなりヒドイあだ名を付けられたようです。
次のあだ名は誰のことか分りますか

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1.ネジアゲ・・・・・・(ヒント)幕府の偉い人です
2.氷川のホラ吹き・・・(ヒント)江戸を救いました 
3.チャカポン・・・・・(ヒント)暗殺されてしまった方です。あだ名の付け方としては素晴らしいと思います。
4.白豆・・・・・・・・(ヒント)名門の公家の出身者です 
5.小豆餅・・・・・・・(ヒント)長州のヒーローです

(答え)
1.徳川慶喜・・・松平春嶽が明治時代になり昔を思い出して、徳川慶喜が将軍になかなか就任しない様子を見て、「普段はあまりお酒を飲まないが、勧められるといやだいやだと言いながら結構飲むし、勧められないとゴネて機嫌が悪くなる」という面倒くさい「ネジアゲの酒飲み」に例えたことが由来です。こういう人とお酒を飲むには肝臓が丈夫でないといけませんね。
2.勝海舟・・・・生前はかなりホラを吹いていたようで、坂本竜馬が勝海舟を訪問して勝の人物の大きさに感動したという有名な話を勝自身が「氷川清談」で語っていますが、これもウソかもしれません。こういう人と話をするときは、とにかく眉毛に唾をつけて下さい。
3.井伊直弼・・・彦根藩の藩主になる前、大好きな趣味に没頭していていましたが、その趣味が「お茶」「歌」「鼓」なので、「チャカポン」と呼ばれたようです。あだ名としては秀逸だと思います。
4.三条実美・・・尊王攘夷派の長州藩士たちが、陰で言っていたようです。きっと肌の色が白かったのでしょう。ちなみに姉小路公知は「黒豆」と呼ばれていましたが・・・・・。
5.高杉晋作・・・子供の時に天然痘にかかり病気は治ったのですがアバタが顏にでき、近所の悪童たちが付けたあだ名です。子供は遠慮がないのですが、こういうあだ名はいけません。「チャカポン」のように明るいあだ名が良いと思います。

こうした幕末の有名人の「あだ名」を知って幕末当時の歴史を再度見ますと、これらの人々が目の前に活き活きと浮かんできます。歴史の見方も深く、さらに面白くなると思います。
(2015年1月3日)

歴史ブログ 大名の石高(2)

明けましておめでとございます。昨年は皆様に大変お世話になり、ありがとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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さて、前回の続きですが、今回は「譜代大名」の石高についてお話しさせていただきます。
大坂の陣の直後の元和3年(1617)の時点で5万石以上の大名を対象にして北から順に申し上げますと次の通りになります。

<譜代>・宇都宮藩 奥平忠昌 10万石 ・平藩 鳥居忠政 12万石 ・高田藩 酒井家次 10万石 ・館林藩 榊原康勝 11万石 ・松本藩 松平康永 7万石 ・佐倉藩 土井利勝 7万石 ・高崎藩 松平信吉 5万石 ・加納藩 奥平忠政 10万石 ・大垣藩 松平忠良 5万石 ・桑名藩 松平定勝 11万石 ・彦根藩 井伊直孝 20万石 ・岡崎藩 本多康紀 5万石 ・高須藩 徳永昌重 5万石 ・篠山藩 松平康重 5万石 ・竜野藩 本多政朝 5万石 ・尼崎藩 戸田氏鉄 5万石 ・明石藩 小笠原忠真 10万石 ・姫路藩 本多忠政 22万石 ・日田藩 石川忠総 6万石 

譜代大名で最大の石高は、姫路藩の本多忠政の22万石です。これに対して前回のブログでご案内の通り、外様大名の中では加賀藩の前田利常が120万石であったり、福岡藩の黒田長政が52万石、薩摩の島津家久が61万石と大大名(だいだいみょう)がおります。

しかし、旗本を含む徳川幕府の総石高は約自700万石といwれていますので、徳川幕府だけが突出して大きな石高で、前田家と言えども1/5~1/6程度になります。これだけの差がありますと、外様大名が一人で徳川幕府に逆らうというのは不可能だとよく分かります。

また、上記の「譜代大名」、「外様大名」以外に「家門大名」(かもんだいみょう)という徳川将軍家の血族の大名もおりましたので、徳川幕府の力は石高からは更に強化されます。

幕末には、これらの藩から分家なども出て数が増え、最終的に約270程度の大名家になりました。

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さて、次に石高ですが、検地によって土地の見込み収穫量を算定し、石(こく)で表示します。1石は10斗(=100升=1000合)で、大人の1年分の食料の量に相当します。例)3合/日×333日=999合=約1石)
また、その田畑の生産量の優劣によって上田、中田、下田等に等級付けされたましたが、現在、このようなお名前(氏)の方は、あるいはこのような理由によってある時期に姓(氏)が決まった可能性もございます。

「石高」ひとつを取っても、いろいろと話題が尽きないのが日本歴史ですが、また、そこが大変面白いところだと思います。

(平成28年1月2日)

歴史ブログ 大名の石高(1)

こんにちは 「東京の家系図屋さん」の行政書士安藤です。
12月も過ぎようとしていますが1年は早いと毎年年末になると感じます。

さて、前回の続きになりますが、江戸時代の大名の石高と言うのはどの程度だったのでしょうか。

江戸時代には、大名がおよほ270程度存在したことは前回お話しいたしましたが、各大名はどのくらいの石高だったのでしょうか。

そもそも江戸時代の日本全国の総石高ですが約3000万石でした。

この総石高を徳川幕府と各大名で分けることになりますが、まず江戸幕府領(旗本領地を含みます)は約700万石でした。残りの約2250万石が大名領となります。
比率で言いますと幕府が二割五分(25%)、大名が七割五分(75%)と言う感じでした。

前述のとおり、日本全国には幕末頃には270程度の大名がおり、それぞれが領地を統治していました。この大名の6割弱が5万石未満でした。

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・1万石以上2万石未満=28%(63家) 2万石以上3万石未満=16.4%(37家) ・3万石、以上5万石未満=14.2%(32家) *出典「日本の歴史12 江戸開幕」。寛政4年(1664)に領地を幕府から承認された225大名を対象(その後、分家などがあり幕末までに徐々に増えて行きます)。

先ほどの旗本ですが、大名が徳川幕府の。直臣のうち禄高1万石以上ですので、禄高1万石未満のものになります。このうちお目見えを許されるのが「旗本」で、許されないのが「御家人」と呼ばれていました。

江戸初期の大名の中で特に石高が多い大大名は次のとおりです(元和3年(1617)当時)。

<外様>・米沢藩 上杉景勝 30万石 ・秋田藩 佐竹義宣 21万石 ・盛岡藩 南部利直 10万石 ・山形藩 最上家親 57万石 ・仙台藩 伊達政宗 60万石 ・会津藩 蒲生忠郷 60万石 ・上田藩 真田信之 10万石 ・津藩 藤堂高虎 32万石 ・加賀藩 前田利常 120万石 ・宮津藩 京極高知 12万石 ・鳥取藩 池田光政 32万国 ・紀州藩 浅野長晟 38万石 ・松江藩 堀尾忠晴 24万石 ・広島藩 福島正則 50万石 ・長州藩 毛利秀就 36万石 ・徳島藩 蜂須賀至鎮 25万石 ・土佐藩 山内忠義 20万石 ・高松藩 生駒一正 17万石 ・岡山藩 池田忠雄 32万石 ・松山藩 加藤義明 20万石 ・宇和島藩 伊達秀宗 10万石 ・小倉藩 細川忠興 40万石 ・福岡藩 黒田長政 52万石 ・佐賀藩 鍋島勝茂 36万石 ・久留米藩 田中吉政 33万石 ・薩摩藩 島津家久 61万石 ・熊本藩 加藤忠広 54万石 などです

関ヶ原の合戦が、慶長5年(1600)ですので、その直後の時代になりますが、物凄い大名が沢山いるのが良く分ります。
こうしたご先祖様をお持ちの方、また、そうでない方も等しくご先祖様を敬うことは大切なことだと思います。

選べる調査方法

内容が多いので、譜代大名は次の機会にさせていただきます。
 

歴史ブログ 江戸時代の大名(譜代 親藩 外様)

時代劇を見ていますとお殿様がほぼ必ず出てきます。ある時は将軍であったり、また別のときには水戸の御隠居様であったり、いろいろです。

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さて、江戸時代において殿様は旗本以上の主君や貴人に対して使用されました。
語源的には「大名主」であり、これに類する語としては「小名」(しょうみょう)があります。
小名は、あまり有名でないことを意味しますが、大名は大きな所領を持ちは以下の武士を多く抱えた有名な武士と言うニュアンスになります。

さて、江戸時代では「石高1万石」という基準があり、1万石以上の場合には大名と言いました。この大名には3種類があり、「親藩」「譜代」「外様」と分類されます。

●親藩は徳川の血を引く大名(徳川家康の男子男系子孫に限ります)で、血縁関係にある親戚の藩になります。
尾張、紀伊、水戸の御三家がこれに当たります(のちに吉宗の時代から御三卿も加わります)。
もし将軍家に跡継ぎが無かった場合には、この御三家の中から将軍が選ばれることになります。姓も「松平」を名乗りました。*御三家=尾張、紀伊、水戸。御三卿=田安、一橋、清水 です。

●譜代大名ですが、「譜代」は先祖代々と言う意味です。ある主家に先祖代々仕えた家臣の家系を「譜代の臣」と呼ぶように何代も主家に仕えていますので信用度は高く、その大半は10万石以下で5万石以下の大名も多いのですが、幕府の要職につけました。
具体的には関ヶ原の戦の以前から徳川(松平)家に仕えていた家臣等の家系になります。多くは重要な領地を与えられ、幕府の中でも重用され老中、若年寄などの要職に就きました。譜代大名の江戸幕府における別の役割は、次の外様大名の監視することでした。

●外様大名は、関ヶ原の戦いの後に徳川家に仕えることとなった大名で、幕府内では重要な役に付けず領地も江戸から遠いところにありました。外様大名は豊臣政権時代には要職についていた大名が多く、関ヶ原の戦いの後、転封されたものも多くありました。有名な外様大名は次の通りです

加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙台藩伊達家、長州藩毛利家、・・・これが、明治維新へのエネルギーへと転化するのは約260年後になるのですから、歴史は本当に面白いと思います。

(平成27年12月22日)

歴史ブログ 西郷隆盛と庄内藩

 西郷隆盛の遺訓集である「西郷南洲翁遺訓」は、明治22年(1889)に元庄内藩士であった人によって書かれました。

 ご存知の通り、庄内藩は会津藩と共に佐幕派の筆頭格のような存在です。
 また、明治維新時に戊辰戦争が起こり政府軍と奥羽越列藩同盟軍が東北地方で戦いましたが、戊辰戦争の引き金となった江戸薩摩藩邸の焼き討ちでは庄内藩士が主導的役割を果たしました。
 
 この焼き討の背景には大政奉還と言う妙手によって討幕派の大義名分が無くなったため、西郷の指示により江戸市中に強盗、放火、辻斬りなどの挑発行為が繰り返し行われたことがあります。幕府にとって当時の薩摩藩邸は犯罪者の巣のような状態でした。

 こうしたいろいろな経緯があったために、戊辰戦争で討幕軍に敗れた庄内藩では戦後の厳しい処分を覚悟し、重臣菅実秀(すげさねひで)らが交渉に当たりました。ところが、参謀であった黒田了介(のちの清隆)が庄内藩に対して行った処分は寛大なもので『当分の間謹慎を命ずる』と言うような内容でした。会津藩が下北半島の斗南に転封されたのとは大きく異なりました。この裏には、西郷隆盛の指示があったとされています。

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 これによって、西郷隆盛の名声は庄内中に広まり、庄内では明治3年に旧庄内藩の選抜隊70名程度を鹿児島に留学をさせるほどでした。その後、明治10年に起こりました西南の役には、もと庄内藩士であった人間も参加しましたが、このときの恩返しのような気がいたします。

 この遺訓集でとくに有名なものは30条の「命も要らぬ、名声も要らぬ、官位も金も要らぬという人は始末に困る
(=扱いにくい)人である。始末に困るほどの人でなければ艱難困苦を共にして国家の大事業はなし得られぬものだ」というものです。

 現在、山形県の 酒田市に南洲神社(酒田市飯森山二丁目304−10)があり、この境内に西郷隆盛と菅臥牛の二人が対面している像があります。お互いを思いやる武士同士が話し合っているように私には見えます。
 
*菅実秀は、出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)の藩士で戊辰(ぼしん)の敗戦処理に手腕を発揮し,家老に進み、西南戦争後「南洲翁遺訓」を刊行しました。明治36年2月17日死去。74歳。通称は善太右衛門。号は臥牛(がぎゅう)。

歴史ブログ 高遠蕎麦と保科正之公

こんにちは 東京の家系図屋さんの安藤です。
今回は「高遠そば」についてお話しさせていただきます。

突然ですが、現在の日本は、47都道府県から構成されていますが、明治維新の前の江戸時代には藩が全国に270程度存在しました。
これらの藩では独自の文化が発展しましたが、参勤交代によって中央と地方の文化の交流が行われました。また、大名の転封(てんぽう。国替え)によって新たな大名が新しい領地に文化を伝えることもありました。
庶民レベルにおいては、お伊勢参りのような旅によって新たな文化が各地に伝わりました。

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さて、福島県の会津若松には「高遠」(たかとう)の地名がついた蕎麦があります。

もともと「高遠」は信濃国(長野県)の地名(現 長野県伊那市高遠)ですが、江戸幕府第2代将軍秀忠の4男として生まれ、信濃高遠藩主保科正光の養子になった保科正之が同藩の藩主となり、その後、寛永8年(1631)出羽山形藩に転封となり、寛永20年(1636)陸奥会津半初代藩主となりました。

保科正之公は、もともと信州育ちですので蕎麦好きだったようで、転封の際にも蕎麦打ち職人を連れて行きました。このようにして会津に信州の高遠蕎麦が伝わりました。
こうした縁もあり、現在、長野県伊那市と会津若松市は親善交流都市となっています。
会津若松の方は絡み大根の絞り汁と醤油を合わせたつゆにつけて食べます。
信州の方は焼き味噌を使うようですが、どちらも辛み大根が決め手となります。信州の高遠では、戦後辛み大根が栽培されなくなりましたが、当時の高遠町の役場や商工会が会津若松から辛み大根の種子を貰い受けて栽培し、今日に至ります。

伊那市、会津若松市を訪問された際には、保科正之公を思い出しながら辛み大根のお蕎麦を頂くのもよろしいかと思います。
(2015年12月21日)

歴史ブログ 武士の養子 末期養子 由比正雪 

暑い日が続いていますがいかがお過ごしでしょうか。
前回は隠居についてお話をさせていただきましたが、本日は養子についてお話しさせていただきます。     

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お客様から先祖調査のご依頼を受けていろいろ調べますと、養子として現在の戸籍に入られている場合も多く見受けられます。この養子縁組は、かつての家制度のもとでは非常に重要な制度でした。特に家を継ぐ男子がいない場合は、養子を迎え入れなければお家の一大事になります。

さて、江戸時代の武士の養子には、他の家から養子を迎え入れる場合、弟が兄の養子になる場合、ある家の娘と結婚する場合などがありました。
跡継ぎの養子は「継嗣」(けいし)と呼ばれます。戸籍などには、たまに「養嗣子」(ようしし)とあるのを見かける場合もあります。

普通の養子は単に養子と呼ばれましたが、弟が兄の養子になる場合は「順養子」と呼ばれ、養親の娘と婚姻する場合の養子は「婿養子」(むこようし)と呼ばれました。

これら以外に、不慮の事故等の場合に備えて仮に養子としてたてておく場合を「仮養子」と言い、大名家などが当主の死に際に急に養子を急いで立てた場合は「急養子」(または「末期養子」)と呼ばれました。これは本来は緊急避難措置のようなものですが、実際には既に当主が死亡してしまっているのに、それを隠して養子縁組をした場合もあったようです。一般的には、いったん養子を決めて幕府に届け出ておくと、その後に実子は誕生しても後継者にしにくいという事情もあったようですので、生前に養子を後継者にすることを躊躇したと思われます。
 

さて、背戸時代の初期には末期養子が禁止されていましたが、その理由は、本来、大名は幕府に対して跡継ぎを事前に届け出ることが必要でしたが、この要件を満たしていないことが表向きの理由でしたが、裏の目的は大名の取り潰しによって徳川幕府の権力を強化することにあったようです。
江戸初期に無嗣断絶となった大名を上げますと次の通りになります。

・小早川秀秋 備前岡山藩51万石 1602年 無嗣断絶
・武田信吉 常陸水戸藩15万石 1603年 無嗣断絶
・堀鶴千代 越後蔵王堂藩4万石 1606年 無嗣断絶
・松平忠吉 尾張清洲藩52万石 1607年 無嗣断絶
  
上記以外にも、たくさんの無嗣断絶となった大名がおります。
この結果、無嗣断絶により改易となり、多くの武士が浪人となる事態が発生しました。
大名が大量に改易されたことにより江戸幕府当初の50年間で浪人の人数は約40万人に達したといわれています。

江戸幕府三代将軍徳川家光により武断政治が行なわれていた当時には、関ヶ原の戦い、大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたために浪人が急増し、他方、再仕官の道も厳しかったので浪人が町に溢れていました。

こうした状況下で、一部の者は幕府の政治に対して否定的な考えを持つようになりました。
慶安4年(1651年)徳川家光が病死し、11歳の息子徳川家綱が後継者となりました。新しい将軍が幼君であることを知った由比正雪は幕府転覆と浪人救済を掲げて行動を開始しましたが、ことが露見し打ち取られてしましました。

このように、末期養子の禁止による無嗣断絶によって発生した浪人が、日本史に残る事件を起こしました。一口に養子と言っても一般庶民と大名家では社会的影響度も桁違いですが、現在は一定の制約のもとで我々も養子を迎えることができますので、良い時代になったものだと思います。  (2015年7月30日)

歴史ブログ 武士の相続 家督相続と隠居

家系図を作成する場合や相続などで古い戸籍を取り寄せてみてみますと「家督相続」と言う言葉が良くでてきます。現在では使用されていませんが、戦前は家督相続と言う制度がありました。              

この家督相続制度では、戸籍上の家の長を戸主とし戸主の地位などを次の戸主が引き継いていました。現在のように共同相続するのではなく単独相続が原則であったわけです。                   
ちなみに、戦前の旧民法では戸主権として、家族の婚姻・養子縁組に対する同意権、居所の指定に従わない家族の離籍などが認められておりました。
                                                   さて、では、この家督相続制度は明治の旧民法制定前はどうであったのかということが、行政書士として相続手続き等を、東京の家系図屋さんとして家系図や先祖調査を行う私の出番になるわけです。

            C05                       
                                                   江戸時代の相続については身分が深く関係し、武士の間では特に厳格に定められていました。武士の身分の相続には3種類があり、「家督相続」「番代わり」「新規召し抱え」がこれに当たります。   

簡単に説明しますと「家督相続」は幕臣の中でもお目見え以上の身分の者の場合に行われました。具体的には旗本または三河以来の譜代の旗本が対象になります。
「番代わり」は与力、同心などの奉行所に所属する場合や、番方(たとえば書院番とか)の場合が対象です。 「新規召抱」(しんきめしかかえ)は、新たに採用されて番入(ばんいり)また役成(やくなり)したもので、本来は1代限りですが、実際は子などが相続可能でした。
                         
明治政府のもとで日本に民法が制定されて相続に関する規定を定めるときに、おそらくこうした古い制度なども参考にしたのだと思いますが、「家督相続」と言う言葉は、本来、相当身分が高い人が亡くなった時にその地位等を次に引き継ぐ場合の用語だったと分ります。
そうすると、家督相続は当時の日本人にとって非常に大事なことで、また、旧民法においても戸主の権限が強大であったこともよく理解できます。

家督相続は、一般的に家長である父親の死亡により行われますが、父の生存中に行われる場合もありました。
前者を「跡目相続」(あとめそうぞう)と言い、後者を「隠居相続」(いんきょそうぞく)といいます。

一口に隠居と言いましても、言い方に種類がありました。
大名は「封を継ぐ」「家督を継ぐ」と言い、旗本、譜代の御家人クラスですと「家を継ぐ」と言ったようです。
隠居相続の場合の年齢制限ですが、隠居する方は基本的に特になかったようですが、被相続人は原則17歳以上と定められていました。
この隠居も届け出ればよいといものではなく、御目見え以上のクラスでは、疾病、老衰等の理由を添えて「願い出る」ことが必要でした。

隠居願いをしてお役御免になると、家督相続願いを更にして、また、これが許されると、城中に出頭させて老中の承認を得ることが必要でした。大変な手間と時間がかかったわけです。その後、相続の儀をお城で行ったのですから、何か月かは必要であったと思われます。
なかなか楽なご隠居さんと言うようには簡単にはならなかったようです。