歴史ブログ 戦国時代の女性の初産

こんにちは 東京の家系図屋さん代表の安藤光信です。
今回は戦国時代の女性の本当の姿を婚姻、出産から見てみようと思います。

当時のことを知るにはルイスフロイスの著作が良いようです。
日本に来た宣教師ルイスフロイスは織田信長とも親交があったイエズス会の司祭で、ポルトガル人です。

日本の仏教界と対立していた信長の信任を得て畿内でのキリスト教布教を許可され、布教の傍らにあちこちを見て歩き「日本史」と言う本を書きました。この本には「信長公記」には書かれていない部分もも多くありますので、戦国時代を研究する際には重要な資料になっています。
この本の完訳は全12巻なのですが、分り易い文庫本もあります。

フロイスいわく「ヨーロッパでは夫が前を、妻が後ろになって歩くが、日本では夫が後ろ、妻が前を歩く」とあります。また、「ヨーロッパでは財産は夫婦の共有であるが、日本は夫婦それぞれが自分の財産を所有しており、時には妻が高利で貸し付ける」ともあります。
さらに「ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはとても大事だが、日本では両親に断りなく娘たちが1日でも数日でも一人で出かける」とあります。
ルイスフロイスの言葉を信用すればヨーロッパの方がキリスト文明の影響で女性に対して封建的な姿勢で、戦国時代の日本では割と自由で自立した女性が多かったように見えます。

さて、こうした逞しい戦国時代の女性の初産年齢ですが、前田利家の妻で有名な「まつ」は初産が13歳(数え歳)でした。彼女の場合は特別に早いのですが、そのほかを見てみますと次の通りになります。

(夫)     (妻等)              (初産の年齢)
                          *数え歳
前田利家   まつ(千代と言う説もある)       13歳
武田勝頼   遠山夫人               15歳
武田信玄   三条夫人               16歳
細川忠興   ガラシャ               17歳
宇喜多秀家  前田豪姫               18歳
稲葉正成   春日局                19歳
橋場秀勝   お江                 20歳 
豊臣秀吉   茶々(淀殿)              21歳
蒲生氏郷   織田冬姫               23歳
山内一豊   千代(まつ?)            24歳
伊達正宗   田村愛姫               27歳

(出典:47都道府県の戦国 姫達の野望 発行講談社 著者八幡和郎)
*この本は、とても面白く読めましたので、お勧めです。

さて、上の表からも分りますように、極端に若い年齢で出産した場合もありますが、大体はそれほど若すぎるということはないようです。
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他方「戦国時代の結婚は政略結婚で、女性は虐げられていたので結婚年齢が早かった」というのは誤解で、当時の政略結婚においては男性側も相手を選べないのは基本的に同じことでした。政略結婚の目的のひとつに「婚姻により同盟関係を結び、戦争を回避する」と言う大きな目的がありますので、平和な今に生きて、厳しい戦国時代に行われた結婚について現在の価値観で批判的に語ることは無意味に思われます。

先祖調査においては男系を調査する場合や女系を調査する場合がありますが、母や祖母、曾祖母と続く女系のご先祖様も、このように厳しい時代を夫と共に必死に何世代も生き抜いてこられたお蔭で、今の自分が存在するのだと改めて深く思います。

ちなみに平和な現在の結婚年齢ですが、厚生労働省の「夫・妻の平均婚姻年齢の年次推移」http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/marr4.html
によりますと、昭和45年の初婚は夫26.9歳、妻24.2歳。平成21年では夫30.4歳、妻28.6歳と晩婚化が進んでいます。

                          (2015年7月22日)

歴史ブログ 平将門とその子孫(4)

 将門が常陸の国府を襲撃をした2か月後の天慶3年(940年)正月に、将門を脅威に感じた朝廷は追討軍として藤原忠舒ふじわらのただのぶ)、小野維幹(おのこれもと)を追捕使(ついぶし)として任命し、さらに「将門を殺したものには五位を与える」と決めました。しかし、この追討軍が坂東に到着するのには非常に時間がかかり、結果的に間に合いませんでした。

 他方、朝廷の将門追討軍とは別の反将門の動きがありました。実は、平将門の乱を鎮めたの朝廷の追討軍ではなく、これとは全く別の現地の反将門勢力でした。

 この現地の反将門勢力ですが、常陸国にいた平貞盛(たいらのさだもり)・・・平国香の子・・・が、下野国押領使の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に声をかけ反将門軍が誕生しました。
 おそらく朝廷の「将門を殺したものには五位を与える」と言う決定や、過去の平家内部の紛争などが影響しているように思えます。また、藤原秀郷の姉妹が平国香の室(しつ)・・・奥さん・・・であったので、その縁戚関係もあったと思われます。 

 日本史が大好きな方はご存じかも知れませんが、平清盛はこの平貞盛の四男惟衡(これひら)の子孫にあたります。また、藤原秀郷は俵藤太(たわらのとうた)として有名です。ここらあたりの名前が出てきますと、わくわくしてきますね。
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 さて、平貞盛、藤原秀郷に「将門の軍が、部下を帰している」と言う旨の連絡が入りました。時期的に現在の三月頃です。農民は春の農作業の準備があります。この結果、将門の勢力は1000人にも満たない状況となったようです。
そして、将門軍と貞盛、秀郷の軍は何度か戦ったのち、最後の日3月14日を迎えます。

 最後の合戦の火ぶたが切られました。この時、将門の軍勢はわずか400人ほどに減っていたようで、対する貞盛、秀郷の軍は3000人程度でありました。
 それでも将門は勇敢に攻め、騎馬隊の先頭に立ち貞盛、秀郷の軍を襲い突き崩して行きました。貞盛、秀郷の軍は遁走を始めました。将門とその軍勢の強さがよく分かります。しかし、その時に追い風だった風向きが変わりました。この風に乗ってきた矢が将門の額に命中しました。全くの偶然によるものです。
 こうして、坂東のヒーロー平将門は最期を迎えました。
 
 現在、茨城県北相馬郡で行われています「相馬野馬追」は平将門が始めたと言われております。「寛政重修諸家譜」には「将門がときより相馬を称し、文国がときに常陸志田に住し・・」とあります。この相馬野馬追の主役が旧相馬藩主の家系の相馬氏で、現在、北海道で牧場を経営されているそうです。
 平将門公のご子孫が現在もお元気でいらっしゃることは、全国の歴史が大好きな方々やご先祖様に興味を持つ方々にとって素晴らしいことだと思います。
 
 それぞれのご家庭にそれぞれのご先祖様がおり、現在の皆さんへと繋がっています。私たちの前に多くのご先祖様がおりました。ご先祖様調査の喜びのひとつに、こうした絆を確認することがあるのではないでしょうか。
  今日もご先祖様に感謝して、この話を終わりとさせていただきます。
                           (2015年7月7日)

歴史ブログ 平将門と子孫(3)

 前回に続いて「天慶の乱」のお話をさせていただきます。

 さて、興世王、源経基と武蔵武芝との争いを調停した平将門ですが、またまた難題が降りかかります。

 武蔵権守の興世王が武蔵国守がと仲たがいをし、権守の興世王が将門を頼ってきます。更に常陸国で問題を起こした藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に保護を求めてきます。
 
 当時の日本は律令制でしたが、現在の法律と異なり地方まで厳格に律令が施行されている状況ではありませんでした。そこで、有力者に解決を頼むようなことなどもあったようです。
 
 どうも平将門は頼まれると断れない性格の人のようで、今でいえば大親分のような感じかもしれません。こうした仲裁を頼まれることからもわかりますように坂東の人々から大変信頼されていたようです。
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 この藤原玄明の身柄引き渡しを常陸の国府が将門に行ったのですが、将門は断り、逆に軍勢を連れて常陸の国府に撤回を要求しました。しかし、国府側はこれを拒否し将門に宣戦布告をしたので、将門は戦わざるを得ない状況に陥りました。
 この時の将門の軍勢は国府側よりも少人数でしたが、国府の軍勢を打ち破ってしまい、地方官庁の印と官庫のカギを奪いました。このことは朝廷に反旗を翻したことになります。
 
 しかし、他方で、将門は京都から派遣されてくる役人に不満を持つ当時の関東の土豪、有力農民の間のヒーローとなりました。地元民の支持を得た将門の軍勢は、翌年には下野の国府を簡単に陥落させ上野も占拠してしまいました。こうした坂東の異変を聞いた朝廷は、当時、瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こしていましたので、両者が手を組んで両方から都に攻め込むのではないかと非常に恐れたようです。
 
 こうした事態を受けて、ついに朝廷は将門の追討を行うことを決定しました。この決定により坂東のヒーローである将門に人生最大の危機が訪れることとなりました。続きは、次回とさせていただきます。

                                (2015年7月7日)

<重箱の隅を突っつく日本史小ネタ>2

こんにちは 東京の家系図屋さんの行政書士安藤です。
今回も、教科書には出てこないマニアックな日本史の小ネタをご紹介させていただきます。
日本の歴史と日本人が好きな方が増えれば幸いです。

今日のお題 
「ペリーは開国前に既に日本の領土に入っていた」

 日本史に必ず出てくるペリー提督ですが、嘉永6年(1853年)6月3日に浦賀にやってきました。そのペリーは実は日本の開国前に日本の領土に入っていました。

 これをご説明しますと、江戸湾は神奈川県の観音崎と千葉県の富津を結ぶ線で直線で約7kmほどにくびれています。このラインの手前を内海、外を外海(浦賀水道)と呼びます。
 当時の国際法では、入り口が直線6カイリ(約11km)より狭い湾等はその国の領土と見なされていたようです。ペリーはこれを知ったうえで内海に入り測量を開始しました。

 従って、明らかな領土侵犯です。幕府がぶったまげるのも無理はありませんよね。

<重箱の隅を突っつく日本史小ネタ>
こんにちは 東京の家系図屋さんの行政書士安藤です。
今日から、教科書には出てこない、マニアックな日本史の小ネタをご紹介させていただきます。

今日のお題 
「秀吉に入れ知恵したのは落語家のような名前の人」

木下藤吉郎から羽柴秀吉になり、相当エラクなった秀吉さんですが、征夷大将軍になりたくて足利義明に養子にしてもらおうと思いましたが「ダメ」とキッパリ断られました。
そこで出てきたのが「菊亭晴季」(きくていはるすえ)さん。
この名前は、どう見ても現代の落語家のようであります。
秀吉に藤原氏の養子になるように勧め、秀吉は養子になり、めでたく関白になりました。

*菊亭晴季さんは、実はれっきとした貴族(藤原北家)です。

その後の晴季ですが、豊臣氏と密接な関係となり栄え、その娘を二代目関白の豊臣秀次に嫁がせるほどでした。
しかし、秀吉に嫡子の秀頼が出生すると秀次と妻は処刑され晴季も流罪になりましたが、やがて許され朝廷に復帰し、その子孫は江戸時代以降も続き、明治になり侯爵となりました。

「北海道札幌市白石区菊水」の地名にある「菊水」は明治時代に菊水家がこの土地に畑を持ったことに由来するとされています。

(2015年6月16日)

歴史ブログ2 平将門と子孫(2)

こんにちは 「東京の家系図屋さん」代表の行政書士安藤です。
今日は、前回に続き、平将門公についてのお話しです。

平将門は桓武天皇の5世の孫で、祖父の高望王(たかもちおう)の代に臣籍降下し平高望(たいらのたかもち)と名乗り、上総介に任じられ関東(坂東)に来たことで坂東平氏(武家平氏)が発生しましたことは前回お話しさせていただきました。

当時は、国司(現在の県知事でしょうか)等に任命されても本人が直接行かずに部下を代理人として派遣させる(これを遥任(ようにん)と言います。)場合が多かったのですが、平高望は3人の子供を連れて行きました。
それが、長男国香、二男良兼、三男良将で、その三男の良将の子供が平将門になります。

この関係を示す家系図は次の通りになります。

平高望—―――――長男国香――――貞盛・・・・・伊勢平氏(平清盛)
     |―――――二男良兼
    |―――――三男良将――――将門
(以上が嫡子)
    |―――――良正等(庶子?)    

上の家系図でもよく分かりますように、有名な平清盛は平高望の長男国香の系統の子孫にあたります。

さて、古代日本史における最大の出来事の一つでもある天慶の乱ですが、もともと将門は伯父の良兼と不和で、承平5年(935年)2月に将門VS良兼、国香、良正の争いがあり、このときは将門が勝ちました。この争いの原因は、将門が朝廷に出仕している期間中に父良将が死亡したので郷里に帰ると、父の土地の大部分を伯父国香、義兼に横領されていたとされています(異説あり)。この当時は同族間でも土地を巡る争いは良くあったようですし、平家の同族内での争いが具体的にあったことが分かります。

こうした平家内の内紛を伏線にして、天慶2年(939年)11月に武蔵の国に新らしい国司が赴任することとなり、その前に権守(ごんのかみ)興世王(おきよおう)と権介(ごんのすけ)源経基(みなもとのつねもと)が赴任しました。なお、権守の「権」は「仮の」と言う意味ですので、現代風に言いますと「国司代理」「副国司」のような感じの役職になります。

この源経基は清和源氏の祖で、後に源平合戦としてよく知られる「治承寿永の乱」で勝利し、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖に当たります。時代が下って、それぞれの子孫である清盛、頼朝が争うことになった訳です。興世王については詳細が良く知られていません。

新しく武蔵の国に赴任してきた興世王、源経基の二人と従来から現地にいた足立郡の郡司武蔵武芝(むさしのたけしば)の間で争いがあり、武芝はこの調停を関東地方(坂東)の実力者であった平将門に依頼しました。この原因は、興世王、源経基の二人が国司の正式赴任前に検中(けんちゅう)を行おうとしたことによるとされます。

将門の調停で興世王と武芝は和解しましたが、経基はこの調停に参加していませんでした。武芝の部下の兵が経基の営所を包囲したので、あわてた経基は京に戻り、どうしたことか将門、興世王、武芝の3人を謀反の疑いで訴えました。
しかし、これに対して将門は関東5か国(常陸、武蔵、上野、下野、下総)の「将門は謀反をしていない旨」の国府の証明書を提出して無実となり、逆に経基が誣告罪で罰せられました。

ここまでは、将門もこうした何度かの危機を免れてきましたが、いよいよ正式な国司が武蔵に赴任してきたことにより、ますます大きな危機が訪れることとなりました。

その平将門が朝廷に対して反乱を起こしたとされるのが平将門の乱として有名な「天慶の乱」(てんぎょうのらん)です。

続きは、次回といたします。

(2015年6月15日)

歴史ブログ1 平将門と子孫(1)

こんにちは 「東京の家系図屋さん」代表の行政書士安藤です。
今日から、「歴史ブログ」と題して、皆さんに歴史の面白いお話をさせていただこうと思います。

さて、私は日本の歴史が好きなので、よく本を買ったり図書館に行ったりします。
たまたま、現在、手元で読んでいる本が「戦国の雄と末裔たち 中島重雄著 平凡社新書」と言う本で、その最初に出てきましたのが平将門公でしたので、第一回の題材に選びました。

さて、ご存知の通り、日本史上の有名人物である将門公ですが、天慶2年(939年)に起こったの天慶の乱(平ら将門の乱)で有名な方です。
将門公の父は平良将(良持と言う説もあるようです)、祖父は平高望(たいらのたかもち)、曾祖父は葛原親王(かずらわらしんのう)、高祖父は桓武天皇になり、5世になります。

祖父の平高望は宇多天皇の時代に平朝臣を賜与されて臣籍降下し、それ以降、平高望と名乗りました。
高望は上総介(上総は現在の千葉県)に任じられ任地に定着しました。介は2等官ですが、上総国(かずさのくに)は親王任国でしたので、実質的な国府の長官に当たります。この時に長男国香、二男良兼、三男良将を連れて行き、この三男良将の子が平将門公になるわけです。

将門公の家系図はつぎの通りとなります。

桓武天皇 ⇒ 葛原親王 ⇒ 平高望 ⇒ 平良将 ⇒ 平将門

とても立派な家系図です。

さて、次回は天慶の乱についてお話しさせていただく予定です。

(2015年6月11日)
選べる調査対象

第3回「家系図の魅力と作り方」開催のご案内

選べる調査対象家系図を自分で作る「家系図の魅力と作り方」講座の第3回テキストが出来ました。
この講座は全3回で4/18、5/16に第1回、第2回が開催され、次回6/20が最終回となります。
最終回は、受講者の皆さんが集められた戸籍謄本等を基に実際に家系図を作成していただく予定です。いまからとても楽しみです。
また、こうした内容にご興味をお持ちの方は、新しい講座が7月から始まります。講師は橋本先生になります。詳細は下記よみうりカルチャー様のホームページからご覧ください。

http://www.ync.ne.jp/yokohama/kouza/201507-08990110.htm 

この講座では、私自身がいろいろと学ばさせていただく機会となりました。受講者の皆様に御礼申し上げます。
機会がございましたら、また受講者の皆様とお会いするのを楽しみにしております。
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よみうりカルチャー横浜 家系図講座 2015年5月

5月16日13:00から、横浜のよみうりカルチャー様において、「家系図の魅力と作り方」の講座を開催いたしました。全3回の2回目の講座dしたが、2名の方が途中参加され、人数も増えて質問も多く頂き大変活気がありました。参加された皆様に御礼申し上げます。
次回(6月20日)はこの講座の最終回ですが、受講者の皆様が集められた戸籍謄本等を基に、それぞれの家系図を通ていただく予定です。どのような家系図が完成するのか今からとても楽しみにしております。(2015年5月19日)20150516-よみカル-compressorSN3N0562

お待たせしました!パンフレット一部改訂・増刷ができ上がりました

 資料請求をいただいた一部のお客様には、パンフレット等資料のお届けをお待ちいただきご迷惑をおかけいたしましたが、「東京の家系図屋さん」のパンフレットの一部改訂・増刷が4月19日に無事納品されました。
お待ちのお客様には、早速、資料等を郵送させていただきましたので、よろしくお願いいたします。

パンフレットのサイズはA4で見やすい大きさです。内容も写真、カラー印刷で楽しくご覧いただけると思います。前部で20ページ程度ですので、ご説明を丁寧にさせていただきました。

パンフレット等資料(無料)をご希望の方は、ホームページの「資料請求」からご連絡を頂き次第、手配をさせていただきます。
ご先祖様調査にご興味を持ちの方はこの機会に是非お気軽にご連絡ください。お待ちしております。
(2015年4月22日)

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