歴史ブログ 平将門と子孫(3)

 前回に続いて「天慶の乱」のお話をさせていただきます。

 さて、興世王、源経基と武蔵武芝との争いを調停した平将門ですが、またまた難題が降りかかります。

 武蔵権守の興世王が武蔵国守がと仲たがいをし、権守の興世王が将門を頼ってきます。更に常陸国で問題を起こした藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に保護を求めてきます。
 
 当時の日本は律令制でしたが、現在の法律と異なり地方まで厳格に律令が施行されている状況ではありませんでした。そこで、有力者に解決を頼むようなことなどもあったようです。
 
 どうも平将門は頼まれると断れない性格の人のようで、今でいえば大親分のような感じかもしれません。こうした仲裁を頼まれることからもわかりますように坂東の人々から大変信頼されていたようです。
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 この藤原玄明の身柄引き渡しを常陸の国府が将門に行ったのですが、将門は断り、逆に軍勢を連れて常陸の国府に撤回を要求しました。しかし、国府側はこれを拒否し将門に宣戦布告をしたので、将門は戦わざるを得ない状況に陥りました。
 この時の将門の軍勢は国府側よりも少人数でしたが、国府の軍勢を打ち破ってしまい、地方官庁の印と官庫のカギを奪いました。このことは朝廷に反旗を翻したことになります。
 
 しかし、他方で、将門は京都から派遣されてくる役人に不満を持つ当時の関東の土豪、有力農民の間のヒーローとなりました。地元民の支持を得た将門の軍勢は、翌年には下野の国府を簡単に陥落させ上野も占拠してしまいました。こうした坂東の異変を聞いた朝廷は、当時、瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こしていましたので、両者が手を組んで両方から都に攻め込むのではないかと非常に恐れたようです。
 
 こうした事態を受けて、ついに朝廷は将門の追討を行うことを決定しました。この決定により坂東のヒーローである将門に人生最大の危機が訪れることとなりました。続きは、次回とさせていただきます。

                                (2015年7月7日)

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