築地市場と江戸の台所(1)

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 秋を通り越して東京は肌寒い天気ですが、最近は東京オリンピック関連の工事で築地市場の豊洲移転がたびたび話題になり、熱く新聞、TVを賑わしております。

 豊洲に移転するのが良いのかどうかはさて置き、今回は話題となっています築地市場を取り上げたいと思います。
 また、江戸時代の江戸の台所(市場)はどうなっていたのかという話させていただきます。

 さて、東京(江戸)は徳川家康公が江戸幕府を開き、日本の歴史上注目されることとなりました。
 江戸幕府が成立する前の東京は日本の中でも田舎でした。現在繁華街となっている銀座や湾岸エリアも、かなりのド田舎でした。

 最初にこの地域が開ける契機は、江戸幕府が1603年に開かれはるか以前の1457年に太田道灌が武蔵国豊嶋郡に城郭を築いたことにありました。
 これにより城下に市が立ち、廻船も江戸湾に入ってくるようになったようです。太田道灌時代当時の江戸の集落の規模ですが、それでもたった100戸程度で、太田道灌以前の江戸は10戸程度の寒村(漁村)といって良いと思います。今では考えられません。 当時はやはり関西が経済の中心地でありました。

 ここで、中世の東京の地図をご覧ください(出典 早わかり江戸時代 日本実業出版社)。

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 現在の東京都の地形とは大きく異なり、日比谷辺りには入江があり日比谷は海の中でした。東京駅のあたりは「江戸前島」と呼ばれており半島状の地形で、その回りは三方が海でした。
新橋のあたりは完全に海中でした。

 
 太田道灌以降、室町幕府が滅び、戦国時代になり、豊臣秀吉が天下統一を果たしました。そして、秀吉によって関東移封となった徳川家康が江戸に入ります。
 
 家康の関東移封から暫くたった江戸幕府成立後の1639年代の東京の地形は、その次の地図をご覧ください(出典 同上)。

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 中世の地形と比べて、かなり埋め立てられています。東京駅がある江戸前島という半島の周りはすっかり陸地になり、日比谷の入江も陸地になりました。海中にあった新橋も埋め立てられて陸地となっています。

 徳川家康が江戸に城下町を本格的に建設開始したのは豊臣秀吉の死亡(1598年)以降になります。
 では、何故それまで徳川家康は本格的な城下町を積極的に建設しなかったのでしょうか。
 
 その答えは、豊臣秀吉存命中であれば再度移封される危険性があったからです。さすがに用心深いと言われる徳川家康だけのことはある思います。

 豊臣秀吉死亡後、関ケ原の合戦(1600年)を経て、1603年に徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開設しましたが、同時期(1603年)に摂津国(せっつのくに。現在の大阪周辺及び兵庫県東部)の佃村の漁師を移住させました。移住した人の氏名も判明しておりますが、森孫右衛門以下30人の漁師と伝わります。また、彼らの移住前の現在住所地は、現在の大阪府大阪市西淀川区佃と判明しております。

 この移住の理由ですが
 ①「徳川家康の大好物が鯛の天ぷら」で「新鮮な魚介類を献上させるため」というものがあります。将軍というのはものすごいグルメな権力者だったと感心しますが、他に
 ②「本能寺の変が起き織田信長が死亡した時、徳川家康はわずかな手勢とともに大阪にいましたが決死の覚悟で本拠地岡崎城へと戻る途中に神崎川(現在の大阪市住吉区)を渡る舟が無く先に進めなりました。そのときに近くにあった佃村の庄屋の森孫右衛門と彼が率いる漁民が徳川家康に船を提供したため無事生きて岡崎に戻ることができ」「後に江戸幕府を創設した家康が、このときのことを恩に感じ、摂津国佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権と佃島を与えた」というものがあります。

 恐らく後者が正しいと思われますが、案外、その後は大好物の天ぷらを徳川家康は毎日いただいていたのかもしれません。

 そして摂津国佃村から移住した30名の漁民が江戸に住み着いた場所(徳川家康から拝領)が、当時、江戸湾の隅田川河口にありました「佃島」でした。彼らは故郷の村の名前にちなんで命名したと思われます。ここに移住した漁師たちは、かつて干潟であった佃島を自分たちの手で造成したと言われています。土木技術も持っていたのでしょうか。驚きます。

 ここから本題の築地市場の話になります。

 さて、先ほど出てきました森孫右衛門の子(二男)に九右衛門がおりました。森孫右衛門支配の漁師達は小網町辺りに居住(佃島から魚河岸の成立によって引っ越してきたのか。詳細不明)して御膳白魚上納と将軍遊覧の際の網曳御用を勤めることになり、九右衛門は漁に出て鮮魚を将軍家に献上しますが、漁獲の余りが出ます。彼は、この余った魚を幕府の許可を得て日本橋小田原町で売りました。これが日本橋魚市(魚河岸)の始まりとされています。

 話がそれますが、それ以前の日本橋ですが、日本橋小田原町は小田原出身の石工善左衛門が石揚場(舟で運んだ石材を荷揚げする場所)として幕府から拝領したことが起源で、そもそも善兵衛は戦国時代に北条領国の石切棟梁に任命され、活躍していましたが、天正18年に北条氏滅亡した後、その技量を徳川家康に認められて慶長年間(1596-1615)の初め頃に、本格化する江戸城の普請や城下の町割りに使用する大量の石材の運搬や加工に従事することとなりました。
 
 日本橋小田原町は全国各地から船で運ばれた石材の陸揚げ場として大変賑わい、善左衛門をはじめ配下の石工が数多く居住したようですが、魚市場(日本橋魚河岸)が開かれたことによって石揚げ場は築地に移転することとなり、これを「南小田原町」と称し、日本橋小田原町は「本小田原町」と改称をしました。

 「南小田原町」の成立に、前述の石工善兵衛等移住によるという説のほか、寛文4年(1664)に日本橋小田原町の魚問屋等が江戸幕府の許可を得て開発したとも伝えられ、南小田原町にも多くの魚商が移住して「本小田原町」一帯の日本橋魚河岸に対抗したとも伝わります。 

 話も元に戻しますが、やがて、日本橋辺りに魚問屋が多く集まりるようになり、人口増加した江戸の大きな胃袋に魚を供給し続けました。この日本橋の魚市場は、その後明治時代まで長く続くこととなりました。

 幕末(安政年間)の頃の江戸の古地図は右のとおりです。

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 江戸、明治、大正と日本橋の魚市場は順調に発展を続けましたが、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により、大きな被害を受けたため築地に移転をいたしました。これが現在の築地市場になります。
 
 現在の築地市場は関東大震災以降93年間の歴史がありますが、日本橋時代を含めますと約400年間の歴史になります。この築地の歴史を辿りますと「徳川家康」と「摂津国佃村の漁民」という二つのルーツに行き着くわけであります。
 
 もし、徳川家康公が現在の築地市場の豊洲移転をご覧になっらた、どう思われるのでしょうか。
 
 歴史って面白いですね。
 
 江戸の台所(各市場)については、次回とさせていただきます。

(2016年11月3日)

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