歴史ブログ 平将門とその子孫(4)

 将門が常陸の国府を襲撃をした2か月後の天慶3年(940年)正月に、将門を脅威に感じた朝廷は追討軍として藤原忠舒ふじわらのただのぶ)、小野維幹(おのこれもと)を追捕使(ついぶし)として任命し、さらに「将門を殺したものには五位を与える」と決めました。しかし、この追討軍が坂東に到着するのには非常に時間がかかり、結果的に間に合いませんでした。

 他方、朝廷の将門追討軍とは別の反将門の動きがありました。実は、平将門の乱を鎮めたの朝廷の追討軍ではなく、これとは全く別の現地の反将門勢力でした。

 この現地の反将門勢力ですが、常陸国にいた平貞盛(たいらのさだもり)・・・平国香の子・・・が、下野国押領使の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に声をかけ反将門軍が誕生しました。
 おそらく朝廷の「将門を殺したものには五位を与える」と言う決定や、過去の平家内部の紛争などが影響しているように思えます。また、藤原秀郷の姉妹が平国香の室(しつ)・・・奥さん・・・であったので、その縁戚関係もあったと思われます。 

 日本史が大好きな方はご存じかも知れませんが、平清盛はこの平貞盛の四男惟衡(これひら)の子孫にあたります。また、藤原秀郷は俵藤太(たわらのとうた)として有名です。ここらあたりの名前が出てきますと、わくわくしてきますね。
C39
 さて、平貞盛、藤原秀郷に「将門の軍が、部下を帰している」と言う旨の連絡が入りました。時期的に現在の三月頃です。農民は春の農作業の準備があります。この結果、将門の勢力は1000人にも満たない状況となったようです。
そして、将門軍と貞盛、秀郷の軍は何度か戦ったのち、最後の日3月14日を迎えます。

 最後の合戦の火ぶたが切られました。この時、将門の軍勢はわずか400人ほどに減っていたようで、対する貞盛、秀郷の軍は3000人程度でありました。
 それでも将門は勇敢に攻め、騎馬隊の先頭に立ち貞盛、秀郷の軍を襲い突き崩して行きました。貞盛、秀郷の軍は遁走を始めました。将門とその軍勢の強さがよく分かります。しかし、その時に追い風だった風向きが変わりました。この風に乗ってきた矢が将門の額に命中しました。全くの偶然によるものです。
 こうして、坂東のヒーロー平将門は最期を迎えました。
 
 現在、茨城県北相馬郡で行われています「相馬野馬追」は平将門が始めたと言われております。「寛政重修諸家譜」には「将門がときより相馬を称し、文国がときに常陸志田に住し・・」とあります。この相馬野馬追の主役が旧相馬藩主の家系の相馬氏で、現在、北海道で牧場を経営されているそうです。
 平将門公のご子孫が現在もお元気でいらっしゃることは、全国の歴史が大好きな方々やご先祖様に興味を持つ方々にとって素晴らしいことだと思います。
 
 それぞれのご家庭にそれぞれのご先祖様がおり、現在の皆さんへと繋がっています。私たちの前に多くのご先祖様がおりました。ご先祖様調査の喜びのひとつに、こうした絆を確認することがあるのではないでしょうか。
  今日もご先祖様に感謝して、この話を終わりとさせていただきます。
                           (2015年7月7日)

Posted in 公式ブログ.