歴史ブログ 武士の養子 末期養子 由比正雪 

暑い日が続いていますがいかがお過ごしでしょうか。
前回は隠居についてお話をさせていただきましたが、本日は養子についてお話しさせていただきます。     

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お客様から先祖調査のご依頼を受けていろいろ調べますと、養子として現在の戸籍に入られている場合も多く見受けられます。この養子縁組は、かつての家制度のもとでは非常に重要な制度でした。特に家を継ぐ男子がいない場合は、養子を迎え入れなければお家の一大事になります。

さて、江戸時代の武士の養子には、他の家から養子を迎え入れる場合、弟が兄の養子になる場合、ある家の娘と結婚する場合などがありました。
跡継ぎの養子は「継嗣」(けいし)と呼ばれます。戸籍などには、たまに「養嗣子」(ようしし)とあるのを見かける場合もあります。

普通の養子は単に養子と呼ばれましたが、弟が兄の養子になる場合は「順養子」と呼ばれ、養親の娘と婚姻する場合の養子は「婿養子」(むこようし)と呼ばれました。

これら以外に、不慮の事故等の場合に備えて仮に養子としてたてておく場合を「仮養子」と言い、大名家などが当主の死に際に急に養子を急いで立てた場合は「急養子」(または「末期養子」)と呼ばれました。これは本来は緊急避難措置のようなものですが、実際には既に当主が死亡してしまっているのに、それを隠して養子縁組をした場合もあったようです。一般的には、いったん養子を決めて幕府に届け出ておくと、その後に実子は誕生しても後継者にしにくいという事情もあったようですので、生前に養子を後継者にすることを躊躇したと思われます。
 

さて、背戸時代の初期には末期養子が禁止されていましたが、その理由は、本来、大名は幕府に対して跡継ぎを事前に届け出ることが必要でしたが、この要件を満たしていないことが表向きの理由でしたが、裏の目的は大名の取り潰しによって徳川幕府の権力を強化することにあったようです。
江戸初期に無嗣断絶となった大名を上げますと次の通りになります。

・小早川秀秋 備前岡山藩51万石 1602年 無嗣断絶
・武田信吉 常陸水戸藩15万石 1603年 無嗣断絶
・堀鶴千代 越後蔵王堂藩4万石 1606年 無嗣断絶
・松平忠吉 尾張清洲藩52万石 1607年 無嗣断絶
  
上記以外にも、たくさんの無嗣断絶となった大名がおります。
この結果、無嗣断絶により改易となり、多くの武士が浪人となる事態が発生しました。
大名が大量に改易されたことにより江戸幕府当初の50年間で浪人の人数は約40万人に達したといわれています。

江戸幕府三代将軍徳川家光により武断政治が行なわれていた当時には、関ヶ原の戦い、大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたために浪人が急増し、他方、再仕官の道も厳しかったので浪人が町に溢れていました。

こうした状況下で、一部の者は幕府の政治に対して否定的な考えを持つようになりました。
慶安4年(1651年)徳川家光が病死し、11歳の息子徳川家綱が後継者となりました。新しい将軍が幼君であることを知った由比正雪は幕府転覆と浪人救済を掲げて行動を開始しましたが、ことが露見し打ち取られてしましました。

このように、末期養子の禁止による無嗣断絶によって発生した浪人が、日本史に残る事件を起こしました。一口に養子と言っても一般庶民と大名家では社会的影響度も桁違いですが、現在は一定の制約のもとで我々も養子を迎えることができますので、良い時代になったものだと思います。  (2015年7月30日)

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