歴史ブログ 高遠蕎麦と保科正之公

こんにちは 東京の家系図屋さんの安藤です。
今回は「高遠そば」についてお話しさせていただきます。

突然ですが、現在の日本は、47都道府県から構成されていますが、明治維新の前の江戸時代には藩が全国に270程度存在しました。
これらの藩では独自の文化が発展しましたが、参勤交代によって中央と地方の文化の交流が行われました。また、大名の転封(てんぽう。国替え)によって新たな大名が新しい領地に文化を伝えることもありました。
庶民レベルにおいては、お伊勢参りのような旅によって新たな文化が各地に伝わりました。

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さて、福島県の会津若松には「高遠」(たかとう)の地名がついた蕎麦があります。

もともと「高遠」は信濃国(長野県)の地名(現 長野県伊那市高遠)ですが、江戸幕府第2代将軍秀忠の4男として生まれ、信濃高遠藩主保科正光の養子になった保科正之が同藩の藩主となり、その後、寛永8年(1631)出羽山形藩に転封となり、寛永20年(1636)陸奥会津半初代藩主となりました。

保科正之公は、もともと信州育ちですので蕎麦好きだったようで、転封の際にも蕎麦打ち職人を連れて行きました。このようにして会津に信州の高遠蕎麦が伝わりました。
こうした縁もあり、現在、長野県伊那市と会津若松市は親善交流都市となっています。
会津若松の方は絡み大根の絞り汁と醤油を合わせたつゆにつけて食べます。
信州の方は焼き味噌を使うようですが、どちらも辛み大根が決め手となります。信州の高遠では、戦後辛み大根が栽培されなくなりましたが、当時の高遠町の役場や商工会が会津若松から辛み大根の種子を貰い受けて栽培し、今日に至ります。

伊那市、会津若松市を訪問された際には、保科正之公を思い出しながら辛み大根のお蕎麦を頂くのもよろしいかと思います。
(2015年12月21日)

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