西郷隆盛の遺訓集である「西郷南洲翁遺訓」は、明治22年(1889)に元庄内藩士であった人によって書かれました。
ご存知の通り、庄内藩は会津藩と共に佐幕派の筆頭格のような存在です。
また、明治維新時に戊辰戦争が起こり政府軍と奥羽越列藩同盟軍が東北地方で戦いましたが、戊辰戦争の引き金となった江戸薩摩藩邸の焼き討ちでは庄内藩士が主導的役割を果たしました。
この焼き討の背景には大政奉還と言う妙手によって討幕派の大義名分が無くなったため、西郷の指示により江戸市中に強盗、放火、辻斬りなどの挑発行為が繰り返し行われたことがあります。幕府にとって当時の薩摩藩邸は犯罪者の巣のような状態でした。
こうしたいろいろな経緯があったために、戊辰戦争で討幕軍に敗れた庄内藩では戦後の厳しい処分を覚悟し、重臣菅実秀(すげさねひで)らが交渉に当たりました。ところが、参謀であった黒田了介(のちの清隆)が庄内藩に対して行った処分は寛大なもので『当分の間謹慎を命ずる』と言うような内容でした。会津藩が下北半島の斗南に転封されたのとは大きく異なりました。この裏には、西郷隆盛の指示があったとされています。
これによって、西郷隆盛の名声は庄内中に広まり、庄内では明治3年に旧庄内藩の選抜隊70名程度を鹿児島に留学をさせるほどでした。その後、明治10年に起こりました西南の役には、もと庄内藩士であった人間も参加しましたが、このときの恩返しのような気がいたします。
この遺訓集でとくに有名なものは30条の「命も要らぬ、名声も要らぬ、官位も金も要らぬという人は始末に困る
(=扱いにくい)人である。始末に困るほどの人でなければ艱難困苦を共にして国家の大事業はなし得られぬものだ」というものです。
現在、山形県の 酒田市に南洲神社(酒田市飯森山二丁目304−10)があり、この境内に西郷隆盛と菅臥牛の二人が対面している像があります。お互いを思いやる武士同士が話し合っているように私には見えます。
*菅実秀は、出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)の藩士で戊辰(ぼしん)の敗戦処理に手腕を発揮し,家老に進み、西南戦争後「南洲翁遺訓」を刊行しました。明治36年2月17日死去。74歳。通称は善太右衛門。号は臥牛(がぎゅう)。