歴史ブログ2 平将門と子孫(2)

こんにちは 「東京の家系図屋さん」代表の行政書士安藤です。
今日は、前回に続き、平将門公についてのお話しです。

平将門は桓武天皇の5世の孫で、祖父の高望王(たかもちおう)の代に臣籍降下し平高望(たいらのたかもち)と名乗り、上総介に任じられ関東(坂東)に来たことで坂東平氏(武家平氏)が発生しましたことは前回お話しさせていただきました。

当時は、国司(現在の県知事でしょうか)等に任命されても本人が直接行かずに部下を代理人として派遣させる(これを遥任(ようにん)と言います。)場合が多かったのですが、平高望は3人の子供を連れて行きました。
それが、長男国香、二男良兼、三男良将で、その三男の良将の子供が平将門になります。

この関係を示す家系図は次の通りになります。

平高望—―――――長男国香――――貞盛・・・・・伊勢平氏(平清盛)
     |―――――二男良兼
    |―――――三男良将――――将門
(以上が嫡子)
    |―――――良正等(庶子?)    

上の家系図でもよく分かりますように、有名な平清盛は平高望の長男国香の系統の子孫にあたります。

さて、古代日本史における最大の出来事の一つでもある天慶の乱ですが、もともと将門は伯父の良兼と不和で、承平5年(935年)2月に将門VS良兼、国香、良正の争いがあり、このときは将門が勝ちました。この争いの原因は、将門が朝廷に出仕している期間中に父良将が死亡したので郷里に帰ると、父の土地の大部分を伯父国香、義兼に横領されていたとされています(異説あり)。この当時は同族間でも土地を巡る争いは良くあったようですし、平家の同族内での争いが具体的にあったことが分かります。

こうした平家内の内紛を伏線にして、天慶2年(939年)11月に武蔵の国に新らしい国司が赴任することとなり、その前に権守(ごんのかみ)興世王(おきよおう)と権介(ごんのすけ)源経基(みなもとのつねもと)が赴任しました。なお、権守の「権」は「仮の」と言う意味ですので、現代風に言いますと「国司代理」「副国司」のような感じの役職になります。

この源経基は清和源氏の祖で、後に源平合戦としてよく知られる「治承寿永の乱」で勝利し、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖に当たります。時代が下って、それぞれの子孫である清盛、頼朝が争うことになった訳です。興世王については詳細が良く知られていません。

新しく武蔵の国に赴任してきた興世王、源経基の二人と従来から現地にいた足立郡の郡司武蔵武芝(むさしのたけしば)の間で争いがあり、武芝はこの調停を関東地方(坂東)の実力者であった平将門に依頼しました。この原因は、興世王、源経基の二人が国司の正式赴任前に検中(けんちゅう)を行おうとしたことによるとされます。

将門の調停で興世王と武芝は和解しましたが、経基はこの調停に参加していませんでした。武芝の部下の兵が経基の営所を包囲したので、あわてた経基は京に戻り、どうしたことか将門、興世王、武芝の3人を謀反の疑いで訴えました。
しかし、これに対して将門は関東5か国(常陸、武蔵、上野、下野、下総)の「将門は謀反をしていない旨」の国府の証明書を提出して無実となり、逆に経基が誣告罪で罰せられました。

ここまでは、将門もこうした何度かの危機を免れてきましたが、いよいよ正式な国司が武蔵に赴任してきたことにより、ますます大きな危機が訪れることとなりました。

その平将門が朝廷に対して反乱を起こしたとされるのが平将門の乱として有名な「天慶の乱」(てんぎょうのらん)です。

続きは、次回といたします。

(2015年6月15日)

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